ゆとり世代に生きる

人の生き方・人間の生き方・生き物としての生き方を考える。

生きる事と死ぬ事は同じ


はじめに言っておきますが
「人を殺してもいい」ということではありません。
自分を生かすか殺すかは自分で選択するもので
他人が関与していい問題ではないですので。
そこは踏まえて話します。


小林麻央さんの件もあって、
このようなことを話すのは場違いかもしれませんが
僕自身は小林麻央さんは素晴らしい生き方をしたということを
証明しようとしているので、ご理解ください。
僕も22歳ではありますが、友人・先輩・後輩を含め
10人以上の死をみてきたので、人が亡くなることの辛さは知ってます



では、本題に入ります。
まず「生きている」状態の説明をすると
・心臓が動いていること(身体)
・毎日が楽しい(精神)
の2つが挙げられます。
(他にもあるとは思いますが、ここではという事で)
次に「死んでいる」状態の説明をすると
・心臓が動いていないこと(身体)
・毎日が辛い(精神)
の2つが挙げられます。
(やりたいことのために辛い思いをするということは含みません)


しかし
・心臓が動いている
・毎日が辛い
というのは生きていますでしょうか?


ほとんどは苦しいこともあって楽しいこともあるから人生という事を
受け入れて生きている人が多いと思いますが、
死んだような精神状態で生きていることは正しいのか?
と考えることもあると思います。
(哲学者ソクラテスが残した言葉と同じようなものですね)


この問題にソクラテスは自分の正義を曲げるくらいなら死ぬという
選択をとってしまいましたが、それが彼の望んだ道であれば誰も
否定はできないでしょう。
それどころか、この行いは称賛を受けてますので多くの人には
「正義を通すためなら命はいらない」ということが受け入れられた、
ということです。逆に言うと正義を通さず生きる事は死んでいる事と
一緒ってことですね。
これが受け入れられたということは、
「正義を生かすために体を亡くした」は良いこととしています。


ここで思い浮かぶのは「自殺は逃げ」という言葉ですが、
たしかに何かから逃げるために自殺するのは「自殺は逃げ」で
当たっているでしょうが、何かを達成するために自殺するのは
「自殺は逃げ」にはならないでしょう。


逆で言えば「死にたくないから生きる」って逃げているでしょう。
「生きたいから生きる」というのは正しいでしょうが。
でも多くの人は「死にたくないから生きる」という選択で
生きてると思いますが、それって死を恐れて逃げているって事では
ないのでしょうか?
(「死ぬ事が恐くて生きるのは逃げ」って言葉もほしいです)


考えていることは
「生きたくて生きる」
「死にたくて死ぬ」
どちらも何かしらの目標のために選択していることですから
同じ意味を持つんじゃないかということです。


この点で見ても小林麻央さんは生きることを目標にして
生きようとしたのですから、間違いなく正義を通したということでしょう。



そういう僕は「死にたくないから生きる」選択で生きてます(笑)
当然そんな僕が小林麻央さんを批判など出来ません。


「生きる事と死ぬ事は同じ」についての証明には
少し省略した部分があるので分かりづらくなっているかもしれませんが
もし「こういう場合を考えたら成立しなくない?」みたいなのが
ありましたら是非コメントください。